病気はともかく…
汚職を落ち武者の祟にするのは微妙にアレですが(^^;

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これはタタリか、市職員が事故・病気・汚職逮捕…信長由来「落ち武者の墓」の再開発で住民と対立の末

織田信長が16世紀後半に伊勢長島を攻めた際に抗戦した、本願寺派門徒の落ち武者が埋葬されたと伝わる三重県桑名市の「墓域」の再開発を巡り、市と地元住民が対立している。市は「落ち武者の墓」について、自治体の指定がなく法的には「墓地」と認められないとして、改葬や保存の手続きを経ることなく一帯の宅地開発を進め、6~7基あった墓は現在1基を残すのみとなっている。これに対し住民らは「開発ありきで、由緒ある墓をないがしろにしている」と猛反発。混乱が広がっているが、一方で事業に関係する職員が病気になったり、汚職で逮捕されたりし、関係者の間では「落ち武者のたたりでは」ともささやかれている。

秀吉も参戦した激戦地

 1基だけ残る墓は、田畑と住宅が混在する一角にある。土盛りの上に判読不能の文字が記された石碑がたち、後年に作られたとみられる墓の存在を示す看板が無造作に置かれている。

 さびが浮いた看板には「武士塚」「霊地故不浄事」の文字が。近くに住む女性(74)は「亡くなった義母は織田信長と戦った武士の墓で、土地の守り神と言っていた。世話する人は減ったが、今でも地域の人が花を供えている」と話す。

 墓の目の前には本願寺派の要塞となった矢田城跡の丘陵があり、周辺には大字「本願寺」や、墓域を示す小字「大塚」などの地名も残る。

 『長島町誌』によると、永禄10(1567)年、信長は兵3万を率いて桑名一帯を焼き払い、矢田城もいったん落城した。しかし天正元(1573)年、石山本願寺と並ぶ反信長の一大拠点だった願証寺(がんしょうじ)の攻防で前線基地となった矢田城周辺は再び激戦地に。信長配下の羽柴秀吉(豊臣秀吉)や柴田勝家らの総攻撃で、矢田城は信長家臣の滝川一益が城主となり、翌年、願証寺も降伏した。

 信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』には、願証寺に立てこもった本願寺派門徒2万人を焼き殺したとある。

宅地化される墓域

 こうした戦国史の舞台を今に伝える「落ち武者の墓」は、市が平成13年に計画した桑名駅西土地区画整理事業の区域(26・6ヘクタール)内にある。幅が狭い昔ながらの道路を広げ、都市型の住宅地に整備する事業で、数年前までに全区域の1割が先行建設街区として造成、宅地化された。

 この先行区域内には5~6基の墓域があったため、地元住民でつくる「落ち武者奉賛会」が整備前の19年12月、「落ち武者の墓の伝承が複数ある」とした申立書を市に提出した。これを受け市は墓域を試掘調査したが、最終的に「遺跡はない」と判定、宅地化を進めた。

 この結果、落ち武者の墓はこれらの墓域より約100メートル離れた開発予定地にある1基を残すのみとなった。

 「調査は申立人である奉賛会には伝えられず、住民が作業に立ち会うことも禁止された」。奉賛会会長の加藤和也さんは市への不信感をあらわにする。

「一村総持」

 同会によると、残った1基については、もともと墓であることを示す資料もある。明治時代の古地図には田畑に囲まれた小さな方形の土地で「5歩」(約16平方メートル)と面積が記され、田畑や住宅とは違う特別な空間を印象づけている。また同時期の登記簿には、村の共有地を意味する「一村総持」の注意書きが添えられている。

 桑名市の事情に詳しい土地家屋調査士は「一村総持とは、村人が自由に薪を刈ることができる山林か、村で守った墓のどちらかと考えていい。(当該の場所は)山林ではないので墓であることは明らかだ」と指摘する。

「墓だが墓地ではない」

 一方、市都市整備部の伊藤恒之部長は「確かに墓とは認められるが、法的な墓地ではない。このため宅地化されても問題はない」と話す。

 どういうことか。墓地埋葬法は「墓地」を自治体の許可を得た区域と定めている。「墓地」は区画整理では改葬などの手続きを経なければ壊すことができないが、これら「落ち武者の墓」は自治体の許可を受けていないため「墓地」とは認められず、開発は制限されないという。

 ところで現存する1基は区画整理事業に伴い、平成19年に市有地化されている。つまり「墓地」登録をするべき所有者は市で、許可権限も市にあるため、住民らは「市は『墓地』にしようと思えばできるのにしない」と指摘する。

平成の願証寺攻め

 一方で、市がつくった現況地図には墓地の記号(⊥)が明示されているという。加藤さんは「(現況地図で墓地とあるのに)市は事業計画書に墓地と明示せず、県から事業許可を得ている。意図的な虚偽申請に他ならなず、(事業費総額285億円のうち)国の補助金86億円はだまし取ったに等しい」と怒りを込める。

 市は事業遂行にあたって「住民らの理解を得ていきたい」としているが、見解の開きは大きく、加藤さんはこう言う。「桑名市は『先人が築き上げてきた歴史や文化をブランドに』という方針を掲げながら、やっていることは歴史の破壊。平成の願証寺攻めですよ」

まちづくりの理念に逆行

 今回の対立について、信州大の三枝有教授(行政刑法)は「『落ち武者の墓』は桑名の歴史と深く結びつき、地域の人々の生活の中に信仰として息づいてきた。落ち武者個人の墓であるという以上に大きな意味を持っている」といい、「墓地」か否かの議論以前に、土地区画整理事業の本質に反する市の姿勢が問題だと指摘する。

「たたり」の声

 国土交通省は土地区画整理事業の基本を「住民を主体にしたまちづくり」とし、桑名駅西土地区画整理事業の理念にも『利便性の追求のみならず、高齢者への配慮、歴史、自然という魅力が感じられるまちづくりをめざす』と明記されているからだ。

 三枝教授はこう話す。「土地区画整理事業は行政に大きな権限が与えられている。だからこそ行政は、住民の声に真摯(しんし)に耳を傾け、常に歴史と文化を重んじながらプランを実行していく必要がある。『落ち武者の墓』は、市民の心の支えとしての歴史的存在であり、行政が保全していく必要性が高いと思われる」

 市では墓域の宅地化が始まって以降、事業にかかわった幹部が事故や病気になったり、関連事務所の職員が汚職で逮捕される事件があった。住民の反発も影響してか、市役所内ではこうした出来事について「落ち武者のたたり」ともささやかれている。(川西健士郎)(産経新聞)[2016/2/26]