あっちの世界ゾーン第八十九夜「煙」

楯野恒雪(渡し守)さん談


あれはまだ友人のOさんが幽霊アパート(『新あっちの世界ゾーン』第五十八夜参照)に住んでいた頃のこと。

当時、毎週土曜日の夜になると、私は他の仲間たちと一緒にOさん宅に集まってしました。

(電源無し系)RPGで遊ぶためです。

ある夜、午前1時頃。私はOさん宅へ行くために自宅の裏手から自転車に乗って出て来ました。

私の背筋に寒気が走ったのは、その時です。

どこからともなく、焦げくさい臭いがしました。

私の目の前には、煙がありました。

自宅のはす向かいにある細い路地の奥から白い煙のようなものが立ちこめてくるのです。

私には、一瞬でそれが“ヤバイもの”であるのが解りました。

それまで感じたことのない、Oさん宅の幽霊とは比べ物にならない、

底なしの不気味さ、恐ろしさを感じたのです。

私は自転車にまたがったまま、いつもより丁寧に、気合いを込めて九字を切りました。

すると、私の家の前の通りから、煙が消えて行きました。

いや、それは“消える”というより、細い路地に引っ込んで行くように見えました。

まるで、ドライアイスの煙が満ちていく映像を逆回転させたように。


「いける!」


私の心に希望が芽生えました。

九字が効くと解れば、もう恐いことなんかありません。

精神的優位に立った私は、自転車を進ませ、その路地をのぞき込みました。

まだ、その路地一杯に煙は立ちこめています。その路地は奥に家があって行き止まりになっています。

下町特有の入り組んだ路地の一番奥、といった所です。

調子に乗った私は路地の入り口に立ち、再び九字を切りました。

すると、また煙はスルスルとあとずさるように引っ込んで行き、路地の一番奥の家の玄関先まで下がりました。

そこで私は、さらに追いかけるべきか迷いました。

ただでさえ、自宅前とはいえ真夜中に

「臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前!」

などと叫んでいるわけで……いきなり近所の家の玄関先でそんなコトをやっているのを誰かに見られたら……

結局、私は羞恥心と世間体に負けて、それ以上路地の奥に踏み込むのをやめました。

しかし、たっぷり5分近くそこに立って、煙の様子を見ていました。

目の錯覚ではなく、確かにそこに煙が“いる”のです。

私は心の中で念じました

「もし、そこから一歩でもこっちに来たらタダじゃおかないからな!」

煙がこちらに動く様子がないのを見て、私はOさん宅へ向かいました。

その途中、通り道にある稲荷神社に寄って、あの煙が何もしませんように、と祈りつつ。

Oさん宅についた私は、友人たちに煙の話をしましたが、当然誰にもその正体が解るはずもなく、

いつも通りにゲームをプレイし、昼近くに自宅へ戻りました。

その時、路地をのぞき込んでみましたが、もう煙は見えず、何も怪しい気配は感じませんでした。

私は安心して眠りにつきました。


……その日の夕方。

私はパキパキと、何か枝を立て続けに折るような音で目を覚ましました。

「うるさいなぁ……何だよいったい」

と思って、布団を被って寝直そうとすると、

「キャーッ」

という女性の悲鳴が聞こえました

「何これ……なんで、なんなのー!」

自宅の2階で寝ていた私は、すぐさま起き上がって窓を開けました。

そこには……路地の奥で炎を上げている家と、

その前でスーパーの買い物袋を手にしたまま悲鳴を上げている、その家のおばさんの姿がありました。

階下から父が上がって来て、雨戸を全部閉めろと言います。

燃えている家と私の家とは細い路地を挟んで2軒しか離れていません。

窓から火の粉が入れば延焼は免れません。

しかし、私はなんとなく自分の家に火が燃え移らないのが解っていました。

それは安堵というより、「やられた」という悔恨の念に近いものがありました。

私にできる事はもはや消火活動を見守ることだけでした。

私の予感通り、火事はその路地の一番奥にある家を全焼させて鎮火しました。

周囲の家に全く燃え移らなかったのと、怪我人が出なかったのは不幸中の幸いでした。

火元は、全く火の気のない物置からだったそうで、そこには火元になるようなものは何も無かったそうです。
 
“煙”は、確かに私が命じた通り、一歩もそこから動かなかったのでしょう。

ただし、煙が立ちこめていた場所は見事に焼いて行きましたが。


今でも、その焼け跡──現在は草地になっている──を見るたび、私はあの夜のことを思い出します。

もし、あの時、路地の奥まで踏み込んで、

あの煙を完全に追い散らしていたら、火事は起きなかったのだろうかと。

あるいは、もしかしたら、私はもっと恐ろしい体験をしていたのではないだろうかと。





     戻る